私たちには感情や認識、知識がありますが、忘れることがあっても無くならないのが記憶です。
人それぞれの記憶のパターンが個性となり、個性が感情を変化させ、病気になったり元氣になったりします。自分にとって好ましくない物事や体験があると、解釈や感度が大きな記憶として残存してしまい、感情が絶えず頑なにこだわってしまい、譲らないという固執した状態になり、エネルギーを無駄遣いするので、疲れるようになります。
さらに記憶を良くも悪くもしてしまうものに認知があります。
認知とは、物事に対する解釈であり感度です。例えば「雨」に対するイメージとかです。
「雨が降る」と濡れたり、湿度が上がって蒸せたり、気圧の変化で頭が痛くなったりするという自分にとって好ましくない感覚という意識を持っていたとします。でも、新しい傘をさせるとか、渇水が解消されたり、降灰を解消してくれたり、森林や農作物を育てる土壌が水で潤うことをイメージすると気分が変化します。つまり記憶の鮮明さによってウキウキする人もいれば、憂鬱になる人もいるのです。
記憶は忘れることができるのと同じように、毎回書き換えることができます。解釈や感性は「知識」であり、変えることが出来るのです。
書き換えるときのきっかけになるのが「納得」する、「確信」するという新たな「再体験」です。
ゆっくり=丁寧に=知恵を絞る=念入り
納得できる動作かどうかを確認するときに動作をスローでやるという方法があります...つまり無意識で行っていることを意識しながら行ってみる方法になります。スローで動作するにはとてつもない知恵が必要になります。(知識、知恵とは固定観念を捨てて、思考を柔らかくすることです。)知恵を使わないことには物事はスローになりません。余計なことは考えずに、集中してやらないとスローにはなりませんし、ましてやのんびりいきましょうという事でもありません。
スローでやるということは訓練なのです。
全てのことを徹底的にスローでやると、ありとあらゆる現象や出来事が観察の対象となり、そのことで脳幹や脊椎で処理されていた神経伝達が、大脳で処理され活性化します。無意識を意識し、意識したことが無意識に還元されます。
ゆっくりするということが念入りにするということにも繋がります。つまり念を入れてやるということは意識しながらスローで訓練するということなのです。
全てのことを意識して感じて考えていくと、結局は自分を観察しているということになるのです。
そして自分の全てを観察していくと、自分というのはいつも一定していないということに気付くはずです。いつも変わってさらに変わっていく...
昨日の自分は今日はもういませんし、一時間前の自分は今はもう存在していません。
それどころか一分前の自分さえも一秒前の自分さえももうそこにはいないのです。
自分の肉体も、こころも、もちろん細胞も全て一定していません。
どんどん変化を続けている。
これこそ一期一会、エネルギーという自分という生命の状態なのです。
変わり続けるもの、歪み続けるもの、動き続けるもの、成長し続けるもの、それが生命そのものです。ですから、固定し続けるもの、退化し続けるもの、それは「動かないもの」という死を意味します。
私たちが本当に求めるものは、外側にないことに気付かなければなりません。
肉体という物質には求める限界がありますが、精神という情報には求めるものが無限にあります。私たちが求める幸せとは、無限の幸福です。
それは、外側の世界にはなく私たちの内側...こころの源にあるものなのです。からだの変化を意識する(感じる)ことで幸福感を体験するきっかけとなります。
納得できる心のあり方かどうかを確認するためには自分の意識を外側でなく、内側に向けることが大切です。そうするとこころの活動がより穏やかになります。(自分を観察し、感じると自分に気付くことができるのです。)
こころの活動が静かで落ち着いた状態になればなるほど、睡眠中と同じような深い休息を得られます。そうすると神経系は興奮から解放されて、肉体は正常に治癒力が機能し始めます。
いつも休息の取れた状態であれば、ものごとに柔軟に対処することができますし、新たなストレスも生まれなくなります。