社会人になると、どこかで耳にする「当たり前のことを当たり前にする」というフレーズ。
年を重ねれば重ねるほど、この場合の「当たり前」って何?と聞き返しにくいですが、よくよく考えると人それぞれで「当たり前」という基準って違うと思うんです。
例えば、手間どっている人を見かねて、手伝って「あげた」「のに」、相手の感謝がなかったら、(なぜ、ありがとうの一言もないのかと)不満に思い憤るはずです。
この場面で「自分」と「他者」を分けて考えると、自分から進んで親切をしたが、相手がどう思うかは相手の勝手です。相手から助けを求められてもいないのに、一方的に「相手を助けよう」と自分の都合で行動しただけなので、相手は親切に気付かなかった、あるいはありがた迷惑だと思ったかもしれないので、感謝を要求すること自体、傲慢とも言えるのではないでしょうか。
自分が「当たり前」だと捉えていることが、実は相手の「当たり前じゃない」ことがあったりします。「当たり前」は一人一人の持っている「こうあるべき」という理想=「べき思考」だと思います。これが思い通りにいかない不測の事態が起きたとき、行動や思考が止まってしまう原因なのです。
理想は願望であり、叶わないことが多いことも視野に入れて、叶わなかった場合のこころのゆとりをあらかじめ自分に与えることも大切です。相手から望まれたわけではなく、自ら望んだ行動の結末は自分だけに閉じて満足するものでなければ、当たり前とは言えないと思います。
「当たり前のことを当たり前にする」というのは、自分の行動に責任をもって、相手に結果を委ねず、その結果を自ら受け入れることです。
当たり前という当然の権利はやるからこそ、自分に与えられる取り分です。
「小さなことに磨きをかける。」
「磨きをかける」とは、意識的に心を込めて行うことです。「小さなことに」とは、善に至るための日常動作です。日常動作とは、意思疎通の基本「挨拶」を明るく、行動の基本「率先」を素早く、後始末の基本「感謝」を心を込めて他者とは関係なく自分でやることなのです。相手がどう思おうが関係ないことなのです。
多様性が求められている今、何かを伝えよう、しようとする時に、もっと自分の考えを改める必要があるのではないでしょうか。