「あなたは、見えない世界を信じますか?」
私たちは、活動のどこかのタイミングで自分の行動や相手からもらう行動、またその対象となる物に価値を見出そうとします。
見えない世界と見える世界で、「信じる」「信じない」が要因となって、人によって価値が変わります。もちろんこれは当たり前のことです。価値観は、その人が持つ経験や体験によるからです。
私たちは氣(エネルギー)は見えないと思っています。
手に取ることはできませんが、私たちは相手の氣配り、心遣いや氣遣いを感じます。
ただ、見えるから信じる、見えないから信じないという通り一編のことではありません。
例えば、地球は丸いということを信じています。
例えば、地球と太陽の間に水星と金星があると信じています。
例えば、GPSで自分の場所が分かると信じています。
例えば、レーダーは、遠く離れた場所が見れると信じています。
例えば、酸素がなくなると死んでしまうと信じています。
例えば、霊やUFOの動画をみても信じません。
例えば、精密機械には石のエネルギーが使われていることを信じません。
例えば、消しゴムやサ〇ンラップは害であると信じません。
例えば、音楽(音)が神経や皮膚の緊張を緩和することを信じません。
例えば、触らなくても筋肉が緩むことを信じません。
見えなくても、信じるものもあれば、信じないものもあるということです。
信じないというよりも信じることが難しい・・・なぜなら情報を手に入れる手段は、手紙や本からインターネットという高速の世界へ移行して、私たちはあっという間に膨大な情報の中から欲しい情報を手にすることができ、その時に偽物の情報(フェイクニュース)に騙されることが、日常茶飯事にあるからです。
信じることは難しい・・・「見えないものは信じない」それでいいと思います。
「証拠の無いもの、経験したことが無いもの、それを自分なりに探すこと、経験すること」が重要であり、「信じろ」と言われて「信じる」必要はないのです
ただし、「見えたものを信じる」それでいいとは思いません。見る行為には、脳と視覚が生み出す「錯覚(心理的埋合せ)」や「スコトーマ(心理的盲点)」があり、意識の変化によって見たいものを見るからです。
カエルが見えますか?
イルカが見えますか?
老婆が見えますか?
ドレスの色が何色に見えますか?
ただ、経験できるチャンスがあるのに、信じていないことを理由に経験しなかったり、経験することを拒むほどに闇雲に妄信的に信じ込んでしまったりすることは、自分の人生を楽しむという点において、「もったいない」と感じます。
見えない世界にのめり込んでいる人は、「見えない世界が見える世界を作っている事実」を誇大解釈して、霊とかスピリチュアルばかりに意識を向けています。
見えない世界をないがしろにしている人は、「見えない世界が見える世界を作っている事実」を経験することもなく自分の主観や物質にばかり意識を向けています。
見えない世界への偏った感覚をバランスよくするには、
見えない世界にのめり込んでいる人の場合は、「見える世界の原因を物理的に解決してみる」ことです。不調なのは霊やスピリチュアルの影響だけではありません。自分が食べてきたものや、止められない嗜好品、運動に目を向けて、肉体に未体験の感覚を覚えさせるという経験をしてみることもよいでしょう。
見えない世界をないがしろにしている人の場合は、「見えない世界を自分に反映してみる」ことです。不調なのは栄養不足や運動不足だけではありません。自分の感情を疎かにしている過去があることに気付かせてくれる経験をしてみることもよいでしょう。
どちらも肉体と外界を繋ぐ感覚をフルに活用して感じて経験することが大切です。
物質として存在しない「目に見えない世界」のものには、その役割があります。目に見えないものができないことを物質として存在する私たちが経験することでバランスがとれて、調和という健全な状態になれるのです。
現実世界、「今」という空間で
どう生きるか?
何をするのか?
どんなことをするのか?
それが私たちの役割です。
私たちが生命エネルギーだけで生きるのではなく、物質である肉体を持って生きるのには意味があります。
時間という限りある物質世界で何を体験するのか?
その体験から何を学ぶのか?
そして、限りある物質世界で何を成し遂げるのか?
そのためにどう生きるのか?
その物質世界をより鮮明に感じるために目に見えない世界を利用するのです。
そして、生きるのです。