感情は「魂」の言語です。
言語とは、音声による記号とその体系。それによって伝達しあう行為。
「親が子を庇おうと、救おうと、助けようとする感情」は「子の命への不安」と「その行動に駆り立てる愛」があるからです。このように不安が愛を形作ります。
そして、愛と不安という両極の感情が生き物の基本的感情になります。
私たちのすべての思考・観念・理解・選択・行動は、愛か不安のどちらかに根ざしています。
この相反する2つの感情つまり陽と陰の感情から、様々な状況から感じた誤解や思い込みから、怒りや悲しみや喜び、不安や羨望や恨めしさという妬みなどの固定された概念という感情が生まれます。これらの感情も自然に沸き起こる「自分らしい」感情です。
怒りは自然な感情です。
怒りは「嫌だ!」と断るための感情です。
「怒っていいんだよ」と言われて育った子は、怒りに対して健全な態度でいられるし、そうだねと理解することもできます。「怒りを表してはいけない、感じてはいけない」と戒められて育った子は、怒りを抑圧します。抑圧された怒りは爆発し、暴走します。満足感を感じずに甘味や辛味がマヒしていたり、考え事ばかりしています。
悲しみも自然な感情です。
悲しみを表現すれば、悲しみを認め慰めたり、労わる、思いやることができます。
「泣いていいんだよ」と言われて育った子は、悲しむことは当たり前だと思えます。「泣いてはいけない」と言われて育った子は、悲しみを抑圧します。抑圧や抵抗は不自然な行為ですから、慢性的なうつになります。慢性的なうつは感情をマヒさせ、愛想笑いをしたり、頭痛で患ったりします。
喜びも自然な感情です。
喜びは、幸せを感じる感情です。
「笑っていいんだよ」と言われて育った子は、嬉しくなると自然と笑顔になります。「笑ってはいけない」と言われて育った子は、喜びを抑圧します。他人にはできて自分にできないことが悔しくて恨めしくなります。恨めしさは嫉妬を生み、どうせ人生は苦しいものだと思いこんでしまい、わざわざ苦労してやりがいを感じようとします。また、睡眠障害になりやすく、過眠症にもなりやすいです。
羨望も自然な感情です。
誰かを目標にして生きようと思うとても健全なものです。
抑圧され続けた羨望は「嫉妬」になります。嫉妬があると頼みごとができません。また、人を優先して考えることが多く、誰かのために犠牲を払っていることに気付きませんし、自分の欲しいものが選べません。そのくせにいつも欲しい欲しいと悶々としています。
不安は基本的な感情です。
自然な不安が沸き上がるのは、注意を促して身体を生かし続けるためです。
他の不安はすべて、学んできた記憶から蘇る反応です。不安は愛から生まれます。自分自身への愛です。
でも、「不安と思ってはいけない、感じてはいけない」と言われた子は不安を抑圧します。抑圧された不安は「混乱」を巻き起こすのです。人から見捨てられない努力をしたり、電気を消して寝れなかったりします。
愛は全ての感情の源です。
愛を表現すること、愛を受け入れることを許されて育った子は、必要以上に愛を欲しがりません。でも、「愛を表現してはいけない、愛を感じてはいけない」と言われた子は、愛を抑圧します。抑圧され続けた愛は「所有欲」になります。何かを服従させる何かを打ち負かすために、なげやりであったり、仕事中毒であったり、無謀な運転をしたり、事故や大きなケガを繰り返したり、自分や他人が死ぬことを想像したりします。
感情は「魂」の言語であると冒頭に書きました。感情は魂の純粋な思考でもあります。言葉にならない思考であり、たくさんのことを伝えてきます。表現することさえも難しいのです。
大抵の人は自然な感情を抑圧しています。
それは、親に「我慢しなさい」と教えられたからです。
親も自分の都合に合わせて我慢させるほうが子供をコントロールしやすく楽だからです。
その親も、感情表現することは弱い人間がすることだ、感情は欲望だから表すと恥ずかしいことだと祖父や祖母に教えられたのです。これは、先祖代々受け継がれた習慣です。
その素直な感情が、我慢するという行為で歪むことで魂も歪むのです。
歪んだ魂から生まれる「感情」は、音声に変換され心の言語として「言葉」になります。それは本心ではなくなっているので、嘘になって苦しくなります。嘘の心が源になって、「人生はこうでなければならない」という概念を身体が「行動」として表現します。それが症状や不調として現れます。これこそが狂気という思い込みです。
こうして、自然な感情は歪んでいき、問題が起こるのです。