死とは?
心臓が止ったときでしょうか?
二度と覚醒しなくても息をしていれば生なのでしょうか?
身体機能を機械的に補助している時点で、生なのか死なのか?
昏迷とは反応がなく、物理的な激しい刺激で覚醒させることができる状態です。昏睡とは、覚醒させることができない状態です。
目が覚めて意識がある「覚醒」は、脳幹上部のRAS(網様体賦活系)で制御されます。大脳はRASと交互に連携して意識と覚醒を維持しています。
意識や覚醒を調整する脳の機能は次のような場合に損なわれます。
・RASの機能不全
・心停止による脳の機能不全
・重度の睡眠不足
・けいれん発作の最中と直後
・脳への酸素や血流の不足
・有害物質による脳の機能停止
生と死は、エネルギーの流れ、パターン、過程であって様々な陰陽の繰り返しです。
繰り返し体験するにもかかわらず、私たちは「我(エゴ)」があるために、自分だけに意識を集中させています。「我(エゴ)」は意識が集中したときの注意力のエネルギーでしかありません。それは周囲に障害や問題がないかを探す「問題探知機」のようなものです。この「問題探知機」と「こころ」を同一視すると常に不安になります。
でも「我(エゴ)」を俯瞰してみると、陰陽の太極図のように調和のとれた人体の組織のように宇宙の一部であることに気づきます。
人生において「死」は避けて通れないし、「死」があることで、「生」を意識し実感できます。
西洋医学で延命革命が起き、持って生まれた寿命が遠のく現在において、「死」を考えてこそ「生」が見えてきます。
死について考えるとき、最初に考えるのは「死ぬとき」「意識のない世界へいくとき」「二度と目覚めることのない眠り」です。そうしたときに「その眠りの前はどんな世界だったのか?」をじっくり時間をかけて考えたときの答えは、「生まれたとき」です。
次に考えるのは「生まれたとき」です。
でもどうやって「生まれた」かは、心臓の使い方や呼吸の仕方をはじめから教わらなくても使えたように、どうやって「呼吸をしているか」とか、どうやって「心臓を動かしているのだろうか」と同じであって、どうやって「生まれたのか」考えなくてもよいのだということです。
つまり、死後の世界は誕生の世界です。
それは死ぬ人もいれば生まれる人もいるということです。そしてそれは全て「自分」です。
全てが「自分」であって、ただ一人ずつでしか体験できない宿命なのです。
全ての人の姿は、「いつか」の自分。
自分が自分を知るために、全てが投影した姿。
お金の価値も、人の価値も自分が自分を知るために、男に、女に、神様に、人間に、善人に、犯罪者に、貧乏に、お金持ちに、障がい者に、健常者に、生者に、死者の姿になる。