ずっと歩き続けていると疲れてしまい、足の感覚がなくなっていきます。
からだやこころに疲れがたまった時、自分の気持ちや感覚がそして体験した記憶もあいまいになった経験があるのではないでしょうか?軽いものでは熱中、集中することで周りに何が起こっているか感じれなくなることもそういう同じ経験になります。
この状態を「解離」といいます。
いろんな経験の中でも子供のように心の耐性が低い場合、その時代、その年代、その瞬間に起きた強烈な体験(特に不幸な出来事や精神的苦痛)がその人の持つ能力の限界を超えたとき、受けた苦痛や感情を体外離脱とか記憶喪失という形で意識から切り離し、自分の心を守ろうとします。
何が起きたのか覚えていないことがほとんどです。これは人間の防衛本能としての「解離」であり、日常的ではないので障害ではありません。ただ、これが何かの拍子に、特に切り離さなければ耐えられなかった覚えていない相手が投影として人間関係に登場するとき、意識のコントロール(自己統制権)を失って別の形の苦痛を生じたり、社会生活上の支障まできたした場合、「トラウマ」と呼ばれます。
ただし、これらの体験を多くの人が持っていて、もっと軽い状態のものであれば誰にでもある経験なのではないでしょうか?
例えば(Wikiから抜粋)
車の運転中や、電車やバスに乗っている途中の出来事を、一部または全部を憶えていない時がある。
- 人の話を聞いている時、その内容の一部または全部を全く聞いていなくて憶えていない時がある。
- テレビや映画を見るとき、その話にあまりにも没入してしまって、周囲の出来事に気づかなくなる。
- 空想にのめりこみ、それが現実に起きていることのように感じる。
- 何も考えずに、時間が過ぎるのも気づかないで、ただじっと空(そら)を見つめている。
- あることを実行したのか、それともしようと考えただけなのか憶えていないときがある。
これらを研究者が「解離」と呼んで説明しても、一般の人の日常的な感覚ではわざわざ「解離」とは呼びません。 例えば上記の 空想していた人に「没頭してたんでしょ?」とは言っても「解離してたんでしょ?」とは言わないし、一般の人には解離の意味が伝わらないのです。でもこれらの行動体験は辛い出来事に対処するため、様々な人が無意識に実行している「解離」なのです。
全ての自然治癒の源は、「感じる」感覚です。
誰もが持っている素晴らしい感覚です。
ハッキリしない感覚が、したいことをさせまいとし、行きたい場所へも行かせまいとして、自分の幸せを感じさせないのです。さらには、周りの幸せを喜ぶこともできなくさせているのです。
「感じる」感覚とは、行動しようと思うこと考えることではありません。
肌が痒いのか、痺れるのか、熱いのか、冷たいのか、どういう動きをすれば自分が苦手なのか、得意なのか「行動とともに刺激を通して情報を得る」ことです。
また、生まれ出た感情を「意識を通して認識する」ことです。
あいまいにすれば、苦しみも和らぎますが、楽しみも感じ取れなくなってしまうのです。小さいときから成長した今、向き合って感じれば、自分が経験していることには、苦しいことだけではなく、小さい時は感じ取れなかった楽しいことも情報として記憶として認識する、理解することができるのです。