私たちが生きる目的は魂の経験です。
自分に起きた全ての現実は、魂が経験するために起きているという考えが前提にあります。
私たちは「自分がしたいこと」が現実化するまでの過程を楽しむために、ここ地球に生まれました。それは自ら自由を選び、創造し、自分を表現することです。その中で魂が経験します。
その過程で生まれる感情を「落ち込まずに気分を変えよう」とか「怒らずに喜ぼう」とか「悲しまずに笑おう」とかネガティブに捉えていることをポジティブに無理やり変えようとすると魂の経験ができなくなります。
なぜなら「ポジティブ=良い感情」と思っていて、そっちに強引に切り替える根底にあるのは、本当に感じていることを無視することですから、自分の本心は「ネガティブ=悪い感情」なんだと思い込んでいるということです。つまり、悪いと思い込んでいるからポジティブに無理やり変えようとしていることになります。
私たちの感情は意識から生まれますから、なぜ怒っているのか?なぜ落ち込んだのか?なぜ悲しいのか?を考えずに現実には起きていない架空の自分を無理やり作り出すと、意識も感情も我慢して抑制しすぎてしまうので、どんどん溜まって苦しくなってしまいます。
ですから運動したり、食べたり、大声を出したりという手っ取り早い方法で解放・発散をしてしまいます。ただこれらで発散するときにはその前にしっかりその感情を感じきることが大切です。感情を忘れるためにただ発散や解放しても、あなたの心に納得いく経験値にはなりません。
感じきって、やっとあなたのものになるのです。
まずは感情に向き合って、くやしい 悲しい 寂しい 嬉しい 楽しい……という今の感情を自分から受け取ります。つぎに「なぜそう感じるのか?」と自分の感情に応えてみて、羨ましいからくやしい 繰り返すから悲しい 満ち足りないから寂しい 思い通りで嬉しい 満ち足りて楽しいなど色々な感情の大元に気づいてみますと、特に自分の中にある苦しさが相手の「せいで」起きていると思っています。
相手の「せいで」。
環境が悪い、社会が悪い、相手が悪いと被害者意識があるということは、自分以外のものは自分ではコントロールできないという感覚であり、自分をコントロールしようという意識の裏返しでもあるのです。つまり、自分をコントロールできていないということです。
間違ってやってしまうのは、自分以外のものはコントロールできないけど、相手に復讐するという形で結果として相手をコントロール(支配)してしまうことです。
傷ついたと泣くことであるいは捻くれることで、または怒りをあらわにすることで相手に罪悪感を植え付け相手に謝らせコントロールしようとします。
自分以外をコントロール(支配)することはできないのにやってしまったとすれば、その相手には自分の意思が無くなるという服従でしかありませんから、それは人がすることではありません。
ですから、自分がその相手にしたいこと、その相手との間で大切にしたいこと、どんな自分でいたいのかを考えると、相手を従わせたいわけではないことに気づくはずです。
「相手のせいで不幸になっているのではない」のです。
人に拒絶されたことで悲しい思いをしているならば、自分が自分を否定していないか考えてみましょう。人から自分を大切にしてもらえないのならば、自分が自分を大切にできているか考えてみましょう。もういい加減にして欲しいとか、こんなに我慢しているのにとかそういう表面的なことが問題ではありません。
どうやって奪われたものを奪い返すか?ではなく、相手とどういう関係を築いていけるか?ということが大切です。
例えば、短期記憶障害のある私の母が同じことを繰り返し話すことに苛立つ私は、母に厳しく当たっていました。ですが母とどういう関係を築いていきたいのかを考えると、言いたいことを言い合える関係を築いていきたいと考え、なぜ母にそういう苛立ちを感じたのかを考えると、同じことを根気強く伝えている自分を認めて欲しかったからだということに気づきました。そして母も頑張っている自分を認めてほしくて何度も繰り返してきたのだと思います。
でも認めてもらうもらわないは関係ないですし、本人を助けるのは本人しかないのですからそこに苛立ちはないはずです。
大切なのは私が「根気強く伝えたい」と望んで「こう生きよう」と自分で決めたことです。
理由があって感情が生まれたんだとその感情をしっかり感じて、自分自身のものにしたそのあとに、発散するか解放するかは自由です。
成功体験よりも失敗体験の方が学びがいのある経験ですし、本当は感じていないポジティブ思考に無理やり抑え込むよりも、ネガティブな思考を「噛みしめる」ことで自分の今の考えから気づく未来志向になった方が、良いも悪いもありのままの自分でありながら変われると思います。
その時はじめて他人の気持ちも理解でき、自らの経験を他者に分け与えることができるようになります。
お金に限らずなんでもそうだと思いますが、自分に何かを与えてくれる存在がいるとしたら、それは「神」ではなくて「人」です。人が人に何かを与え合って生きているのが私たちの社会なので、その社会で何かを手に入れたいのなら、他人から「この人に何かを与えたい」と思われる人になれるような生き方が必要だと思います。また、「この人のために何かをしてあげたい」と思われる人間性にならないと人間関係もうまくいきません。つまり一方的に欲しがってばかりだとうまくいかないという意味では、お金も人間関係も同じです。まず自分が相手に何かを与えないことには、他人から与えられる人にはなれないと思います。ただ、相手が欲しがるものを与えるのではなく、自分が与えたいものを与えることが大切です。
お金も人間関係も「自ら与えられない人」はうまくいかないのです。
現実から逃げずに受け止めれば、何らかの学びを得ることができる。そうした学びや気づきが積み重なることで思考は変わっていくはずです。そして思考が変われば行動がかわり、行動が変われば人生が変わります。これを継続することによって人として成熟していこうというのが「Harb396」のテーマになっています。
目の前に現れる現実とは、自分の思考からプロジェクターという、映画のようにスクリーンに映し出されたものでそこに自分はいません。自分は見えない存在なのです。(もちろん相手には見えていますし、鏡にも写ります。)
意識や思考という概念で自分を考えたときに、自分は見えない存在なのです。それを可視化するものが五感であり、肉体なのです。