人は生きていくとき、必ず選択します。
選択するとき、本能である「安心したい」「安定したい」という気持ちが優先するので、環境や行動の変化を嫌い「無難」や「普通」を選択しがちになります。
選択は各個人ごとに異なります。なぜなら本能が生み出す「欲」は、個性そのものなのです。
ですから欲は自分がつらくならないうちは、悪いことではありません。
全ての人間の個性とは、生まれる前から今まで生きてきた遺伝的問題・習慣的問題・経験的問題でできています。
遺伝的な問題は祖先から引き継いだ特異性がその人を制限することです。
習慣的な問題はその人が変わりたいときに、その習慣から抜け出せないように制限することです。経験的な問題は楽しくないと思えてしまうほどの、突然驚くまたは後悔するような、からだが震え上がるほどの痛みや出来事がその人を制限することです。
人は一度に相反する感情を混在させて抱くことができません。ですから制限を受けると楽しくなくなります。逆に不満や不安になるので、苦しくて怖いと感じることで行動できなくならないように無意識でからだを使えるようになります。
この行動を支配するのは脳幹と脊髄です。この神経は反射を司り、体温調節や心筋のコントロールも行なっています。ここには「いつ」「誰が」「どのように」の概念がありません。
ですから、いつの間にかという感覚になります。
自分の脳幹と脊髄は、相手だけでなく自分が吐いた悪口やネガティブな言葉や思いにさえ、いつの間にか反応するということです。つまり、ことわざにある「因果応報」「情けは人の為ならず」に通じるものではないでしょうか?
そうすることがあたかも決まりのようになった「習慣」になります。習得したわけではなく、苦しさや怖さから逃避を繰り返すことであたかも決まりのようになっていくのです。
様々なことを毎日繰り返すことで、無意識でもできるようになってくることを「習慣」といいます。本当は自分はこうありたい、こうなりたいと思っていてもそれが変わりたいというときに、遺伝的・習慣的・経験的性質の問題で不安や恐れが生まれるのです。そして自分以外のレベルに合わせる無難や普通という制限で自分を縛ります。
ですので一度でも逃げや不安の習慣になってしまうと、無意識という「いつの間にか」が働くので、いつの間にかからだが動きます。つまり、行動のきっかけとなる感情や初動の反射そのものが、意識することなく現実の自分を表すということです。
生きるか死ぬかの状況の中で複雑な複数の行動や動作や作業を意識しながら行なうと、疲れてしまい死ぬ確立が高まりますから、その疲れる状況から抜け出すために、そして生き抜くためにからだの神経に自動的、機能的に記憶させることが、習慣という機能なのです。
しかし現代に生きる私たちの習慣の機能は、生きるか死ぬかのためにあるのではありません。その習慣は安心できたり安定できる雰囲気のためにあるのです。たとえその習慣が自分自身を弱くしたり乱すことであったとしても、安心や安定を選ぶのです。
ですから、もしかしたら今の自分が自分であって自分でないような、今の自分に対して違和感や分離した感覚を何となく感じているかもしれません。
それは「本当の自分が求めていることを無視し続けている」からです。
変わりたいのに変われない人は、本当に望んでいることを選ぶことなく、「世間的にはこれが無難」「社会的にはこっちが普通」という自分自身で作り出した制限の中から選択しているので、自分自身が望んで選択しているようにみえて、本当の自分は選択していないのです。自由のない制限は抑圧的で不平や不満を生みますから、安心しているようでモヤモヤしたりイライラしたり、安定しているようでクヨクヨ後悔して悩んでしまうのです。
自然体の人は、「本当にこの人生で体験したかったこと」という基準で自由に選択しますから、より困難なことや不確実なことに挑戦しようとします。
なぜなら、より困難なことや不確実なことが変化をもたらします。なによりも変化を求めるのが人間が本能レベルで持っている「本質的欲求」であり、本質的な喜びだからです。
人は一度に相反する感情を混在させて抱くことができないということを最初にのべましたが、次のように言葉にして習慣づけていくと少しづつ好転していきます。
- すみませんではなく、「ありがとう」
- 疲れたではなく、 「やり通した」「いい汗かいた」(頑張ったはNGです)
- 忙しいではなく、 「充実しています」
- 不安だではなく、 「楽しみだ」「期待しています」
- 無理ですではなく、 「やってみます」
良い言葉は生体反応を強め、良い環境を作り出します。
頑張ったのにしっくりこないのは、頑張るという行為が、他人と比較して自分のすごさや優位さをアピールするという不安や恐れそのものだからです。良い言葉は生体反応を強め、良い環境を作り出します。
もちろん「生き死に」のときは「頑張る」必要があります。
ただ普段から「頑張り過ぎる」と生体反応を弱めてしまいますから、注意が必要です。「頑張ったら休む」「頑張れる体力を作る」と自分でコントロールすることが大切です。
習慣を見直しても維持したいと思ったならば、変えることはありません。
ただ変えたいと思ったならば、慎むべき3つの条件があります。
“慎む”という「きっかけ」は、病気を治すよりも時間的・金銭的・精神的・衛生的に、容易く優れています。さらに、“慎む”という「予防」は自分を強く確かなものにしてくれます。
まず、口に入れるもの。好きなものだけ珍しいものだけを好きなだけ思う存分味わってもいいでしょう。でも、味を知りさえすれば十分ではないでしょうか?その味わうという自分のからだに入れるという行為が、「自分の血となり、肉となるのか考える」ことも必要です。
次に、過ごすもの。時間は皆平等にあります。ですが、無理をしたり頑張ると生体反応が弱まります。他人と比較して「俺が」「私が」と自分のすごさや優位さをアピールすることそれ自体が、不安や恐れだからです。健康を手に入れるために、「慣れた時間を捨てる」勇気も必要です。
最後に、生きる目的。ストレスは欲求が満たされないことで引き起こされます。私たちは欲を満たすために生きているのではありません。楽しく生きたいと思うことそして、そう生きることが幸せに繋がります。人の原動力は、「自分を生きること」であって、他者の人生を「自分の欲を満たすための捌け口にして」羨んだり手に入れようと望んだりしては、ならないのです。