例えば吹き出物が顔にできたとして、あるいは指を切ったとして、あるいは火傷したとして、それはたいしたことではないと思うはずです。それは時間をかけて自然に治るということを感覚的に経験しているからです。それは「治る」ということを信じていますし、そこに恐ろしさはありません。
病気とは、気が病んで、からだが壊れることです。
病気になったとき、自分の中にあるその無限の力を信じるよりも、病気の怖さを信じる傾向があります。病気という顔にできたもの、切ったもの、火傷のものが、からだの内側に自然とできたとき、治ることを信じなくなります。なぜ信じられないのか?それは、恐怖や不安、孤独などの感情に飲み込まれたときに、からだに変化が起きるからです。それは自傷というからだを弱める過程です。
この過程の始まりにはきっかけがあります。
「ありのままの自分は恥ずかしい」という不安や恐怖が肉体と繋がっている自我を飲み込み、委縮させるのです。ありのままの自分では「ダメ」という自己否定や自責の念。こういった自分を信じないことが、偽りの自分へ姿を変えていき、病気を身にまとうのです。
死に直面するあるいは生活が不自由になるほどの病気は手術や治療によって、それを固定したり、切り取ったり、縫い合わせたりします。でも、手術では傷は消えませんし、骨はくっつきません。もちろんそういう治療で治る確率が高まったのですが、悪いところに合わせて、良いところも抑え込みます。最終的に術後のからだを治すのは、休養に支えられたその人自身の持つ治す力です。
私たちは、自分で癒し治す力を持っています。
それを忘れている人が多いと感じます。
忘れているので、治し方がわからないので、「ありのままではない自分」になることで、愛してもらおうとします。でもこころはそう願ってはいません。自然と繋がっている無我は「ありのままで生きたい」「ありのままの自分を愛したい」と思っています。
それは自分を信じる力。
自分の幸せに関係ないことをしていませんか?
自分の人生を大切に考えてみましょう。
それは甘やかすという意味ではありません。
自分が好きなこと喜ぶことを勇気をもってすることです。
やりたいのに怖くてできないことに大切にしたいことが隠れています。
私たちは肉体的に生まれた瞬間から死ぬ瞬間までは経験できますが、肉体的に死んでいることを経験できません。なぜなら、「無」は自然から拒絶される存在であり、「有」は自然に受け入れられる存在だからです。
ですから、
「存続しよう」
「消滅しないようにしよう」
とする信念が肉体を癒し、治すメカニズムになります。
治す力を知るには「生き死に」で考えるとシンプルに答えが見つかります。
では、生きている人と死んでいる人の差は何でしょう?
それは息をしている、息をしていないということです。
次に出血が多いと死んでしまいますから、血が流れているか、さらに血が十分あるかということです。そして、血がキレイであるかということです。つまり、「息」をして、「血」を良くし、体に「悪いものを入れない」ことが、病気にならずに生きていくために必要なことになります。
ある人にとっては多すぎて、ある人にとっては少なすぎるという具合に、十分な血も、血の流れ方も、息の仕方も人それぞれです。何事もほどほどにを心がけることが大切です。ただ、このほどほどというのは範囲内である中庸を表します。自分の「MAX」を知らなけば、ほどほどという加減はできません。ですから限界まで挑戦し、範囲を広げていくことも大切です。
抵抗力というものは、筋肉にも神経にも精神にもあります。
それは使いすぎると破綻し、使わないでいると委縮し、適度に使うときのみ発達するのです。
肉体という物質エネルギーと、精神という意識エネルギーは人間の中で混在しています。特に意識という目に見えないエネルギーはすぐに変化しますが、肉体は遅れて変化するので、繰り返し継続する意識エネルギーの循環を行動という形で具現化する必要があります。
他人は癒すことしかできません。それは、言葉だったり触れたりすることで癒します。癒されることで自分で治す確率が高まったのです。他人が治すのではありません。癒されることで「ありのままの自分」は、創造することができる、愛される価値があると信じることに気付き、病気であることをやめるのです。
そのためにも明確な目的が必要になります。
なぜなら、不明確な目的には不明確な結果が生まれるからです。
自分が望むものは何かを考え、「何のためにするのか」を理解していることが「鍵」になります。
「何のために」を積みあげて、意味を深めていくためには、信念をもって行動に移すことです。
自然治癒力は外から与えることはできません。自分で思い出すしかないのです。