全ての人を心から愛する事、それは最高に素晴らしいことだと思います。
どんな意味にせよ、この人を「あの人と比べて特別だ」と感じた時、裏切ったように感じるのは何故でしょう?それは社会には色々とルールや規制があるからです。このルールや規則、道徳(という制約)は、こうなるかもしれない不安に根ざして作られています。その不安をストレスに感じる人ほどその制約に反抗します。
不倫とは、一般的に人の道に背くことをいい、道徳的に許されない恋愛も含みます。社会的に許されないと感じる行為です。
SEXに関する倫理観、その欠如から性病を含むウィルス感染など、どうするかは各個人の裁量にゆだねられています。そういう意味では自由であり、自己責任であると思います。
ただ言えることは、腎虚という言葉が示す通り、性エネルギーは生エネルギーであり、爆発的エネルギーであり、人間の成長と発展において欠かすことのできない根本的なエネルギーであるということです。せっかくものすごいエネルギーポテンシャルを持っているのに、若いうちは特に性欲という衝動をコントロールすることが非常に難しく、うまくいかないことが起こります。
異性だけでなく同性に対して、好きという感情だけで肉体関係を持つ。夫婦関係が上手くいかないからと関係を持つ。
性エネルギーを野放しで衝動に任せると、性病の苦しみ、精神的苦しみ、愛の苦しみ、嘘をつく苦しみ、傷つける苦しみ、裏切る苦しみ、努力する苦しみなど互いに苦しむにもかかわらず、それよりも相手をコントロールし、三角関係において自分自身さえも騙しあう人間関係を作り上げます。そうやって間違った方向に使うと、創造的なエネルギー(G)は均衡的なエネルギー(O)を崩し、破壊的なエネルギー(D)になって、偽りや不信感からの家庭を崩壊させるほどの大きなエネルギーになってしまうのです。
ただし、愛が全ての人間との間で作られるものであれば、その愛の表現を妨げようとするのは、自由の否定です。それは、魂の否定でもあります。「してはいけない」という制限から逃れるのは魂の宿命なのです。どんな場合でも『制約が反抗(革命)を生む』のです。なぜなら人は弱く、絶えず自由を求めるからです。
妻(あるいは夫)が押し付ける制約、あるいは離婚しないなら付き合わないという不倫相手の制約、それがその男(あるいは女)の不倫衝動を生むのです。
それは、自分をコントロールするのではなく、自分以外をコントロールしたい衝動からです。
そこにあるのはスリルと快感、達成感です。人の目を盗むという言葉がありますが、「盗む」ことに対して本来あるべき「罪」の意識よりも「相手をコントロールしたい欲求」が上回っているので、行動に起こしてしまいます。
私たちは基本的に習慣として馴染んだものを衝動的に欲します。例えば、タバコ・お菓子・お酒・ギャンブル・薬・買い物やゲームなどの課金・麻薬などそれらは依存性が高くなりやすいのです。こうなると「中毒」あるいは「依存」といわれ、この日常的な衝動は気分を満たすために行動にあらわれます。この他にも、順番が待てない、SNSなどのつながり、恋愛、ペット、SEXといった関係性に依存するものもあります。
これらは報酬系という刺激を求める行動をしてしまう、目先の満足を優先してしまうといった傾向になりやすく、実行系という順序立てて行動することが苦手になったり、注意散漫になったりする傾向があります。これにはドーパミン、ノルアドレナリンという神経伝達物質の分泌低下や分泌過剰が関わっています。依存するもの・中毒性のあるものがなければドーパミンやノルアドレナリンを分泌することができない脳になってしまっているのです。
情動的な(例えばお腹がすいた=満たされない=愛されない)判断による行動が、例えば美味しかったとか、異性と気持ちよい関係を結べたなど、動物の生存・繁殖にとって有利な結果に導かれた場合には、強く鮮明に記憶され、これが「またやってみたい」という無意識の欲求になっていきます。このように不快回避行動のために脳が思考能力を一時的に失うこと=短絡的に考えること、これが衝動になります。
衝動のメカニズムは、脳に前頭葉と呼ばれる理性的な長期的思考回路と帯状回と呼ばれる本能的な短期的思考回路の争いで起こります。
一化学物質であるドーパミンが、意志を持って私たちを操るわけではありませんが、前頭葉という理性的な長期的思考回路は、帯状回から送られてくるこの快楽物質の助けなしには、物事を決めたり、繰り返し実行したりすることができないのです。
人間は、必ず「不快」を解消するための行動をとります。大脳辺縁系と呼ばれる帯状回は「不快」を解消するために、感情や意欲を促す前頭葉への連携伝達を遮断し、脳内快楽物質(ドーパミン)を簡単に得られるよう偏桃体から頭頂葉、偏桃体から海馬へ絶えず恐怖感、不安、悲しみ、喜び、直観力、痛み、記憶、価値判断、情動の処理、交感神経などの情動的記憶データとして書き換えを行いながら、満たされた結果にのみ、腹側被蓋野(VTA)から帯状回の先端に位置する快感をつかさどる側坐核(Nucleus accumbens, NAcc)にドーパミンを放射し、その行動を記憶して反復するように学習・記憶の設定が起こります。このようにして学習・記憶された行動は、新たな行動パターンとして記憶・蓄積され、同じ状況では同じ行動が自動的に発現するようになります。
このメカニズムが悪いのではなく、使い方を誤っているのです。
眼耳鼻舌身という五感の感覚器官から入ってくる外の情報『色音臭味触』は、全ては脳幹から中脳(辺縁系)を通って、排他と利己というRASというフィルターにかけられ、快と不快、好と嫌、愛と憎、喜と悲などの情動的評価を記憶と紐づけて、私たちの行動に繋がっていきます。
行動した結果は、究極的には全て脳内で想起する反射と意思によって生まれるので、「なにを見たいのか?」が私たちの日常のすべてを支配する事になります。ですから不快感にともなう衝動を快感へ変えるには、「自分をどうしたいのか?」という意志をもって前頭葉を自分がどう使うかが重要になります。
つまり、目先の利益ばかりに目を取られて後で大損をしたり、逆に将来の大きな利益に期待しすぎて足下の危険を見逃すなどの結果として、利益や損失、快楽や苦しみなどの「報酬」は、行動の結果得られるものと将来的に遅れを持って与えられるものとがありますが、両方を正しく予測し、バランスよく適切な判断をもとに行動を選ぶことが重要なのです。
もう一つ、衝動は直感ではありません。理性の感覚が直感であり、本能の感覚は欲望なのです。
また近年の情報通信技術の発達と経済自由化の進展は、長期的視野に立つ熟考よりも、即断即決により短期的に成果を上げることをよしとする風潮を生んでいます。その風潮から短絡的に偏り過ぎて、衝動的に感情的になりやすい傾向にあります。
また自分が経験しなかった事について、他人を赦せません。人は、自分が選択しなかったものを、「間違っている」とか「悪だ」と決め付けたがりますが、自分が選ばなかった部分を、非難してはいけないのです。
なぜなら選択肢が無ければ、魂は何も選べないからです。それでは、経験がうまれないのです。
選ばなかった部分に多くある「人を憎み殺す(殺人は肉体的に殺し、いじめは精神的に殺す)」や「悪も愛せ」を良しとしません。なぜならそれは「奪う」行為だからです。愛とは「分け与える」行為です。
毎日の適度な運動は、セロトニンを増やす効果が高いです。
日の光を浴びて散歩をすることももちろん大切ですが、特にリズム運動がおすすめです。
また、人とかかわること話をしたり触れ合うこと分け与えることでセロトニンは増えます。
セロトニンが増えることが、腹側被蓋野(VTA)からのドーパミン分泌量を抑制する事になり幻覚・妄想(思い込み)を抑制できます。
笑顔で見つめあう、背中をさすりあう(ハグする)ことでオキシトシンが増えます。
下垂体からオキシトシンが分泌すると扁桃体では警戒心が緩和され、側坐核(Nucleus accumbens, NAcc)では、快感が生まれ愛着の情動が出現すると考えられています。
魂の目的は、全てを経験し、自分が何者であるかを自由に選ぶことです。この使命を果たすには、いくつもの生涯が必要になります。そう考えれば、「魂の旅」がどんなに大切なものかが分かるでしょう。