私たちは、問題が起きると周りと一緒かどうか「答え合わせした正解」を見つけようとします。
私たちがよく使う「本当は・・・です」のような、本当、本来という言葉には、損か得かという複雑な思考へと迷い込ませる危険な力があります。
それは、「本当でなければいけない自分」が前提となって「今は本当ではない自分」に対して「なぜそうなったのか?」あるいは「なぜそうならなかったのか?」という不満や不安へ向かわせる危険な力です。
本当とは何か?を求める時、それは「変わりたい」ときです。今は本当の自分ではない、これは何か違うといった感覚を問題として感じている時です。
ただ、自分への思いやりがなくなると自分を律してしまい、自分だけでなく、相手にさえも厳しく律するように求めてしまいがちになります。
「答えあわせした正解」を探すよりも「自分が望んでいるもの」を探すことが重要です。
答えあわせを探すために本来や本当というものを求めると、「真実:そうである」と「偽もの:そうでない」に分けたがる癖、あるいは周りに影響を受けて安易に飛びついてしまう癖がついてしまいます。
なぜ「自分が望んでいるもの」を探さないのかは、「(自分が望んでいないけど周りが望んでいる)そうである」ことを大多数が決めた場合、その枠からはみ出てしまった「(自分が望んでいるけど周りが望んでいない)そうでない」ことは差別排除されるのだと恐れているからです。
周りから望まれていない自分という存在が、否定されるような感覚になりやすいからです。
例えば、「健康に働けるのが人間の本当の姿」なのであれば、健康ではない人間は差別排除の対象として意識され、扱われることになります。これほど恐ろしいことはなく、事実そういう差別や排除があるのです。
そして・・・・
他人に対して働く差別排除には、強要または矯正という行動が伴います。自分に対して働く場合、自分を強く抑制してしまう行動が伴うのです。
自分が望むものを「ない」と否定して考えていませんか?それが当たり前だと感じていませんか?それは、不安と不満しか生み出しません。自分が決めた基準(偏見)が、相手との関係性を自分がどういうふうに受け取って感じるかが原因になっています。
それが原因で、自分にとって受け入れがたい相手の考えや気持ち、衝動などを我慢するために、無意識に抑圧するので、意識の行動は真逆の行動になってしまうという無意識の防御機能が働きます。これは、したいのにしたくない、したくないのにしなければならないという心の葛藤になります。
いつもニコニコしたり、平静を装いながら、
- 自分は愛されてないんだ
- 自分は重要な存在ではないんだ
- 自分は無力なんだ
- 自分には価値がないんだ
- 自分は金持ちになれないんだ
と無意識に思っているのです。
自分が望んでいるものを無視して、周りに合わせて生きてしまい、今の自分が自分であって自分でないような違和感や分離感を感じるようになります。
ですから、
- 相手を批判しない
- 自分を絶対正当化しない
- ありのままを受け入れる
「私はありのまま全てを受け取っても良い存在なのだ」と認めると、過去から存在する相手という対象ではなく、今という対象と自分だけになります。
「自分で決めた基準」の支配から自由になるということは、そういうことです。
それは、誰かが何かを判断して、それを自分の価値判断で見ないということは、あるがままを見るということで、素直になるという本来の自分の姿です。
このあるがままとは、自分の望むものだけ見ることはできません。自分が望むものの中には見たくないもの、受け取りたくないものもあります。それら全てを受け取る覚悟が必要です。
すると、相手の判断基準も理解できるようになり、その人が持っている固定概念を理解できるのです。
理解できると相手の決め事の支配下におかれることもなくなって、自由になれます。
自由になると、罪悪感で卑下したり相手に合わせようという義務感もなくなるので、相手に罰せられる恐怖もなくなって、心苦しくなくなるのです。
そして自分が望むものを「ある」と肯定した時、それは有難いことだと感じることができます。
今、始めるべきは
自分がしたいことを探すことです。
自分がしなければならないものは、相手にどう写るか、気に入られるかではありません。
自分が変わるために脳が飽きないように工夫し行動することです。