痛みは生命を守るためのメッセージであり、治癒するサインです。
それは遺伝子が決めたのではなく、慣れた自分を捨てきれないことで起こります。通常の生活ができないほど不快な状況に陥ってしまうまで、変化を拒むのです。
なぜなら、人は安心や安定を求めたえず不安や動揺を嫌うからです。
少しでも早く落ち着きたいと思う生き方は、無意識でできる習慣を使います。
習慣とは居心地の良い『枠』です。
これは過去の生き方を模倣することが基本になります。この習慣を身に着けることで、安心するのです。その過去の生き方を続けることで未知の経験を拒みます。不調の原因はこころ(意識)と人生(無意識)の不一致です。思い込み(意識)と身体が感じていること(無意識)の不一致です。経験するはずの未知の行動、経験をするはずの自分自身を拒むということです。結局は過去の自分のままで生きるということです。
変わりたいのならば、慣れた『枠』を捨てて、新しい『枠』をつくる必要があります。
痛みや苦しみの中から学び、変化することは可能ですし、喜びとインスピレーションの中で進化することも可能です。しかしほとんどの人は「苦難のトンネル」を進みます。
痛みに対してその人が感じている(感情)、信じている(信念)、または考えていること(認識)が、自分の生き方に反していることで痛みを生み出していることを知る人は多くありません。
例えば、消化不良は食べ物だけではなく、感情や考え方もうまく噛み砕けないことで起こります。
薬や何かによって痛みを完全に消し去った場合、痛みという違和感の他に考え方や感情や信念に対する違和感を消し去っているかもしれないし、自ら自分のこころとからだを無視し脅迫しているかもしれないのです。
なぜ不幸に感じるのか、あるいは病気になったり不調になるのかは、感情の上手な隠し方を無意識に知っていて、実行しているからです。この方法は簡単で、心の弱さや脆さの感覚を普段から無意識に麻痺という形で浄化させています。
この実行には、お酒や食べ物、ギャンブルやタバコ、さらには買い物やゲームなどの課金、最悪麻薬の力を借りることもあるでしょう。その証拠に、日本に住む多くの人が、ダイエット、借金、肥満、ファストフードや砂糖、服薬治療のいずれかに当てはまります。
これらは、すべてやめることの出来ない「中毒」です。
でも特定の感情を選んで麻痺させることは出来ません。「怒り」「悲しみ」「恥」「恐れ」「失望」などの心の弱さや脆さを隠そうとすると、「喜び」や「感謝」や「幸せ」も同時に麻痺させて隠すことになるのです。
確かな感情を麻痺させることで良い感情まで不確かなものにし、さらに迷い込んで不確かにしてしまいながらも改めて確かなものにしようと、痛みや不快を解放する方法として「こいつのせいだ」という悪いものを作り出し非難します。たとえば、熱、吐き気、鼻水、頭痛、下痢、吹き出物、動悸、息切れなどです。
そして喪失、病気、悲劇といった危機的状況に至って初めて、自分が何者か、何をしているのか、どう生きるのか、何を感じているのか、何を信じ、何を知っているのかなどについて、真剣に向き合い、ようやく変化する覚悟を決めるのです。
ただ誰もがずっと苦しみに耐えなければいけないわけではありません。痛みを覚えることは、私たちには生命エネルギーが流れているということ、私たちには感情、思考、行動と運動、体内の化学反応、精神的思考があり、その痛みという経験を通して、自身の個性の表現と経験を抑制することが、生き方を無視し、脅迫しているのだと気づかせるためにサイン(気づき)として体験するプロセスであるということです。
痛みや苦しみの中から学び、変化する「苦難のトンネル」ではなく、喜びとインスピレーションの中で進化する「期待の登山道」を進むには、不快感や不便さを感じるかもしれませんが、途中で起きるであろう予期不安を手放すことで可能になります。それは痛みや苦しみに比べればほんの少しで済みます。未知の領域に身を置くことで、新しく体験する未知の行動や思考を受け入れる決心をする必要があります。
「未来に関わること」
それは自分を知ることです。
自然治癒力を高めるには、まず自分の人生を生きているのか、自分を生きるための人生であるのか、自分の魂を満たす人生を生きているのかと自分の経験を自問する必要があります。そのために自己評価する時間が少し必要になります。
それを行うと、エネルギーの変化、姿勢の変化、行動の選択、行動を見つめ自己評価することができます。これにより、物理的、化学的、感情的、知的、精神的に人生の目的と調和するための気づきを得られます。この気づきは、一段落を意味する場合もあれば、自己発見の旅に出る始まりを意味する場合もあります。