穢れとは、「気枯(けが)れ」「気離(げが)れ」が由来であり、溌剌とした生命の耀きや霊的な強さが素になっている「気」(エネルギー)が衰えた状態を、ケガレ(汚れ)と例えたことが始まりです。氣が衰えることで生命そのものと日常の活氣が奪れるのを先祖たちは忌み嫌いました。
ただし、死そのものが穢れではなく、死に至る病気や事故、その苦しみや、遺された人達が悲しみ嘆く状態または、出産、月経、結婚、火災など自然と日常生活の均衡が崩れる状況変化を指します。そして日常の回復と秩序の再会への道を開くため、その「ケガレ」を祓い清める儀式が「禊ぎ」(みそぎ)や祓い(はらい)です。
非日常であるハレの空間は、単調になりがちな生活に変化とケジメをつける日でもあり、ハレの空間では、普段ではしない装飾を家に施したり、「晴れ着」を着たり、普段口にする事のない酒・餅・団子・赤飯・肉・お頭付といった食物を並べるなど、非日常的な状況を創ります。特にハレの場のお酒は、味を楽しむためというよりも酔う事で連帯感や高揚感を経験し、共に酔って親睦を深めるためのものです。
一方、ケの空間とは、普段の生活そのものを指し、朝起きて食事をして昼間は働いて夜になったら休眠する、という日常の状態の事であり、ケとは汚れても良い普段着を意味する「褻着」(けぎ)や口を汚す日常食を意味する「褻稲」(けしね)などが日常を創ります。
普段はケによって自らを汚し、区切りをつけるときにハレによって清めることを行います。
ケ(日常)の極まった状態をケガレ、その状態を崩し日常に戻るためのハレ(非日常)の儀式をミソギ・ハライといいます。
神に奉げるエネルギー「御食(みけ)・御酒(みき)・御餅(みかがみ)」を一緒になっていただくことで、溌剌とした生命の耀きや霊的な強さが蘇えり、ケ(「気」という生エネルギー)が充満するので「気」(エネルギー)が栄える状態になります。これがハレる (晴れた、成り成りた状態)という意味です。
また、神に奉げる水は変若水(おちみず)といい、若返り・再生の水として身体を清め、身体に付いた汚穢を削ぎ取るものです。
清美なものは醜悪なものに対して厳しく容赦がありません。
なぜなら穢れを知らない(無視している)からです。
醜悪なものには見苦しさ、汚さ、不快さがありそれは必要なもので自然界にもあります。それは見やすさ、清い、心地良いを理解させるもの意識させるものです。知らず知らずに内側に芽生えたケガレを自然界の陰陽のように必要なものとして、日頃から自分の感情がなぜそういう気持ちになったのか認識しておくことが大事です。
なぜなら人を妬む、恨む、批判するそれらを認識することで、人を攻撃したくなったときのブレーキになってくれるからです。
ただその認識力を低下させているのは「自分が絶対正しい」という考えです。その考えは正しいときもあると思いますが、間違っていることもあります。間違いを知らない(思い込んでいる)ことは恥ずかしい事ではありません。すべてを知っている人などいないのですから。
過信がある人は、丁寧に説明することなく強引に物事を推し進め、人の意見に耳を傾けないばかりか、複数の事を同時並行でやってのけようとして会話も疎かにしてしまっています。
こういうことをせず、口を閉じ人の意見に真剣に耳を傾けると、自分が常に正しいわけではなく、少なくとも些細な間違いがあったことが分かるかも知れません。人の話を聞けるようになると、良き人間関係を創れるだけでなく、自分自身の生活能力も向上します。
特に自分が正しい、相手は間違っていると考えるあまり、他人の意見を反故にしてはいけません。多くの事を学ぶ機会を、自ら放棄して葬り去っています。長く生きていることが正しいとは限らないのです。もちろん人の意見を聞いても考えは変わらないかも知れません。でも注意深く耳を傾ければ、少なくとも他の人がなぜ違う考え方をするのかが理解できるようになるはずです。
他人は自分とは違うのです。それは誰でもそうであり、違いは誰にでもあるという事実をまず受け入れなければ尊重という気持ちは芽生えず、主張するだけの人間関係しか築けなくなります。違いは「間」(タイミング)が違うのです。間を合わせるには互いの声を聴き、息を合わせることです。
さらに顕著なものがインターネットです。手軽で便利なものが、考えるよりも先に指先に任せて、思考(ケ)を怠けさせ麻痺させて、厳しく容赦なく人を攻撃するものになっています。
指先に任せている習慣が「やっていいことか、やったらいけないのか」という行動するために必要な段取り(ハレ)というブレーキを壊しているように思います。