近年、スピリチュアルに対する意識の高まりは、世界中で見られる現象です。
多くの人がスピリチュアルな探求を深める理由や背景には、紛争やパンデミックの影響からくる社会的・経済的な情勢への不安、また科学技術が発展する一方で、物質的な進歩だけでは解決できない心の問題や存在の意味を探求する人々の増加、内面の成長や自己理解を深めたいという個人的欲求の高まりなど、さまざまな要因があると思います。
では、多くの人が関心を寄せるスピリチュアルとは何なのでしょうか?
私の解釈するスピリチュアルとは、物質的な現実や日常の出来事あるいは起きた問題を内面的・精神的な側面から読み解いた時に生まれた気づきや理解であると考えます。気づきや理解の範囲は、自己成長、内面的な安寧を含み、そして目に見えない存在のリズムや意識といった宇宙や自然との『繋がり』を求める心の状態だと考えます。
簡単に言うと私たちのからだの中にある「魂」の欲求です。
私たちは人生において、よく心の問題をテーマにしますが、心は、肉体と魂が出会って生まれるものであり、心や肉体の問題は「魂」にあるのです。
では、「魂」とは何なのでしょうか?
私の解釈する「魂」とは、光と闇を抱えた繋がりを求める存在です。魂は親祖先を含め、出会った全ての方々と繋がり、自分が住んでいるあるいは訪れた土地と繋がり、そして記憶や体験と繋がっています。どんな現実も心も魂と繋がっていて、人生のテーマと結びついているのです。
そもそも、私たちの現実は、揺らぎの世界です。
その現実に当たり前のように生きている自分。
そして、ごく自然に繰り返される日常。
毎日が平穏な方は、揺らいでいるといわれても理解できないかもしれません。
自分に不都合なことが起きるとか、安定していた生活が脅かされるとか、何かしら大きな体験をしない限り、何事もないように見えて一寸先は闇という「現実は揺らぎの中にある」事実が理解できないかもしれません。つまり、いつどんな試練や事故あるいは幸運がやってくるか分からない、それが私たちの住んでいる世界ではないのでしょうか?言い方を変えると、現実とは固定され定められた存在ではなく、絶えず運不運の可能性を秘めた存在ではないのでしょうか?
都合が悪いと迷いが生じたり、都合が良いと舞い上がったりするのは、起きている出来事が脈絡もないような、たまたま自分がそこにただ居合わせただけのような感じ方をしていて、そこに隠れている筋道が見えない、感じられないからなのです。
無造作な数多の星々のようではなく、もし、その筋道が秩序ある星座のように形が浮かび上がれば、目に見えない導き、縁といった人生の分岐点、運命的な出会いに気づけるはずです。
今ある現実とは、夜空に輝く無数の星のように多くの可能性と制限が見え隠れする無限の波の状態なのです。揺らぐ波といってもいいかもしれません。私たちの心にこの無限の揺らぎが触れると、今フォーカスしている感情に共鳴して(心の反応という解釈によって)、無限の可能性と制限の中から全く同じ形が水滴となって形を成し、出来事になるのです。
揺らぎの可能性と制限の中から、どのような現実を引き出すかは、心に大きく左右されます。私たちの前にある現実は、偶然にやってきたものではなく、自分の心の現れであり、魂の問題を教えてくれるお知らせなのです。
魂は何と繋がりたがっているか、言い換えると何を引き受けたがっているかなのです。
あなたの人生、あなたの現実はあなたなしでは存在できません。
あなたが紡いできた事実「繋がり」がどれか一つでもか欠けても、今には至らないのです。あなたがあなたで今あるのは、上手くいったこともしくじったことも、運も不運も、好きなことも苦手なことも、出会った人も別れた人も、その全てが必要だったということです。
信じるという言葉は、確かなものを証明するためにあるのではありません。物理的な法則も科学的な実証も自然現象も、目に見えるものであり誰でも証明できるものです。これは信じるに値しませんし、単なる知識、常識です。これを信じるとは言いません。認めるという言葉が適切だと思います。
信じるとは、目に見えない不確かな、これからどうなるか分からない、誰も科学的解明もできない、そのような未常識で無知で、架空のそういった誰も証明できない存在に対して、「自分の人生がよくなるから引き受けるのだ」と敬意を示すことが、信じるに値するのではと思います。
魂の在り方を問うものが哲学であり、魂が何と繋がっているのかを探ることが瞑想であり、魂が望んでいるものを読み解くことが内観であり、魂への繋がり方を示した礼儀作法や儀式が伝統的な行事であったり、神道であったりするのです。
これらを含めスピリチュアルというのだと思います。