不安という感情は、本来自然な感情です。不安が沸き上がるのは、自分だけでは受け入れられない問題に直面したときに注意を促して身体を生かし続けるために必要不可欠な感情なのです。
そして今人は、人生の中で心の中にたくさんの「不安」を抱えて生きています。
「健康の不安」
「環境の不安」
「命の不安」
「家族の不安」
「経済の不安」
「仕事の不安」
こういった不安が続くのは、信じなくなることから始まります。
「世の中を信じていない」
「他人を信じていない」
「愛を信じていない」
「自然を信じていない」
そして信じられる心持ちになるまで、その不安がなくなることはありません。
では、信じられる心境に至る「信じる」とはどういう意味でしょう?
大丈夫と思うことでしょうか?どうなれば大丈夫になるのでしょう。
任せられることでしょうか?どこまで任せれば落ち着けるのでしょう。
本当だと思うことでしょうか?本当(偽りではないもの値するもの)とは何なのでしょう。
「信じる」の反対は「疑う」ですが、疑うことは悪くありません。自分を信じればこそ異なる考えや意識に出会ったときにどうするべきか考えるために疑う気持ちが生まれます。自分に責任を持ち、決定することで「疑う」その先へ進めればいいのですが、誰かの考えや意識を自分で理解せず学ぶことをせずに「鵜呑みにする」ことで先に進んで失敗した場合、誰かのせいにしてしまいます。これが騙される不安として記憶されます。ですから、まずは学ぶ・実行する・考えることに責任を持つことです。
自分を信じるには、素の自分をさらけ出してそれを見て感じる必要があります。家族に見せる自分、知り合いに見せる自分、初対面の人に見せる自分、職場で見せる自分。喜ぶ自分、満たされた自分、空しい自分、悲しい自分、卑下する自分。そのどれもが本当の自分であり、様々な面があるということです。十人十色ではなく、一人十色ということです。
自分を信じるということは、いろんな面を持つ自分を信じるということ。
他人を信じるということは、いろんな面を持つ他人を信じるということ。
他人が見せている姿は、その人が見せたい姿ですから、それを受け入れるだけです。そうではない違う面もあることはわかりきっていることですから、見せたい姿をその人は信じて欲しいのです。
つまり、「信じる」ということは「受け入れる」こと。何があってもその人の考え方生き方を共有するということです。これは、愛することと同じです。愛することは自分を捧げること、身をゆだねること、コントロールすることを手放すことです。
失敗しても
誰かが亡くなっても
思い通りにいかなくても
お金がなくても
環境が変わっても
世の中が変わっても
相手が心変わりしても
病気になっても
不調になっても・・・
何があっても自分を生きるということ。自分を生きるから任せられるのです。自分を生きるから大丈夫と思うんです。自分を生きるから本当(偽りではないもの値するもの)だと思えるのではないのでしょうか?それが信じるということだと思います。
信じられなくなるのは、自分を生きていないということです。その時、必ずと言っていいほど「自分で考える」「自分で学ぶ」「自分で行動する」という意識にありません。それが不安を背負うことになっているのです。
信じられる心持ちに到着するには自分を生きるしかありません。
そのためにも「こうなってしまったどうしよう」よりも「これからどうするか?」が大事です。