常歩無限という言葉は耳慣れないと思いますが、日常の中での継続的な努力や絶え間ない歩みを表す言葉です。
その対極にある言葉として、臨機応変があります。ポジティブな人ほど臨機応変を意識されていると思います。この「臨機応変」に良いイメージを持つ人が多いと思いますが、私はこの言葉を最近あまり使いたくありません。
というのも、臨機応変という言葉は、意味が明確ではないうえに、相手の判断(気分)で正解にも不正解にもなるからです。
臨機応変を辞書で調べると、「その場のなりゆきに応じて、『適切な』手段をとったり対応を変えたりすること」となっています。
この「適切な手段」という言い回しがクセものだと思います。
理由としては、
・適切な手段とはどういうものか?
・誰が適切さを判断するのか?
の2つです。
つまり、判断基準は、人によってまちまちです。
また、「その時の状況に応じて」なので、前提条件が常に変わってきます。
となると、もはや、正解は判断者の気分次第ということになるのです。
「臨機応変」を多用する人には次のようなデメリットがあると思います。
❶ 判断基準が曖昧になる
❷ 判断する時迷う
❸ 迷いから生産性が下がる
❹ ルールがないとも言える
❺ なんでもありになってしまい不公平感が生まる
❻ いちいち判断基準を確認する必要が出てくる
❼ 判断を相手に委ねて自分で考える力が育たない
などの問題が起きる可能性が高くなると思います。
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特に時間に関して臨機応変を多用すると様々な問題が起きると思います。
時間の価値観は人それぞれですが、同じ時間同じ環境をシェアするのであれば、そこに集う人達に対して自分のために時間を割いてくれているのだと感謝し、敬う気持ちに気づき、待たせないよう相手に合わせる、つまり時間を守ることを優先するはずです。
そこに意識がない場合、そもそも同じ時間をいただいている方々に意識が向いていないことは明白です。
パーティやレクレーションであれば、それほど時間制限を設けなくても良いかもしれません。どのような状況でもそのような感覚でいるのであれば、やはり価値観が違うのだと思います。
臨機応変さばかりが重要視されると、柔軟さや適応力の意味を履き違えて問題が起こります。
そもそも、柔軟や適応力から生まれる「自由」は「規律(ルール)」があってはじめて成り立つものだと思います。
私にとってのルール規則は、日常の繰り返す鍛錬にあります。
無意識に繰り返される日常ではなく、意識された感覚の繰り返しです。
手っ取り早いとか簡単便利とかが好まれる昨今、鍛錬とか修行といった厳しさを敬遠する風潮があるように感じます。
何でも思い通りになる至れり尽くせりの環境では、粘り強さや忍耐を学べません。これはある意味不幸です。
安易な環境よりもむしろ逆境といえる環境こそ、成長に不可欠の条件であり、そこで生じる苦難や失敗の体験が人を成長させてくれるのだと思います。
臨機応変よりも、自分を見つめながら一歩づつ歩みながら周りの知恵も借りながら打つ手は無限の可能性が広がる常歩無限の方が私は好きです。