「病気を治したいのはなぜですか?」と聞いた時に、
「痛いのは嫌だから」とか
「死ぬのは嫌だから」とか
「みんなが心配するから」とか
言っているうちは、まだまだ病気はやめられないと思います。
「痛いのは嫌だから」 → 痛みから解放されたい → 常にある状態でないといけない、だって「手放したい」と言えないから(苦痛系)
「死ぬのは嫌だから」 → 生き続けたい → 常に直面した状態でいないといけない、だって「やめたい」と言えないから(苦痛系)
「みんなが心配するから」 → 安心させたい → 常に無理をした状態でないといけない、だって「疲れた」と言えないから(苦痛系)
これを無意識に繰り返しているのです。
なので、「でも」「だって」「どうせ」と苦痛に対抗しているだけでは、常に苦痛で、身体はダメージを受けるばかりで終わってしまうということです。これは病気を悪者扱いしていて、「私は悪くない」と、自分を正当化しているということです。
痛くないのは「当たり前」、死にたくないのも「当たり前」、思われたくないのも「当たり前」と、他の人と同じという枠の中で、自分にないものを他者が持っているかどうか探しているということです。
また変わることに対して、嫌だ、面倒だ、不安だと思うのは、まだまだ今の方が安心できる、これまで通りが楽だ、失敗したくないといった安定感が可能性を上回っているからです。
何気ない普段の中に、「手放したいもの」「やめたいこと」「疲れること」がありませんか?
まずはあるものに意識を向けましょう。
自分は在る。
息をして、心臓も動いている。
水があり、空気があり、着るものがあって、食べ物もある。
自分が自然の法則の中で「生かされている」存在であるということに気付けば、それらの恵みに感謝しなければならず、この前提が根付けば、人間社会において、互いの存在を認め合い、「生きる」ことができるのだと思います。
そう考えたときに手放すものがあり、やめたいことがあり、疲れることがある。
自分の心の在り方がそれらを作っているのだと気付くのではないでしょうか。
「素晴らしい」「すごい」「最高」と、まずは自分や他者を誉めましょう。
そして感謝しましょう。