人として生きるということは 「人と繋がる」ということです。なぜなら、私たちには母方、父方というバイナリーの祖先と繋がっているという根本があるからです。また、社会的にも様々な組織に繋がり活動し貢献します。
「人と繋がる」そのためには「愛すること」「時間をコントロールすること」「死を理解すること」が重要な要素になります。人は必ずこの3つの要素を手に入れようと、もがき苦しみます。
この3つは、誰もが求めたり避けたいものです。なぜなら私たちは常に、愛を望み、時間を惜しみ、死を恐れるからです。この3つの要素について「気付き」が生まれると、霊的にレベルが上がります。これが人間たる所以であり、他の動物にないものなのです。
自分を自分として認識するには、自分の意識からそれ以外を排除する火の要素「排他性」が必要になります。空間と自分、モノと自分、兄弟と自分、親と自分、家族と自分。これを相対性というのですが、相対するときの関係性を考えながら自分以外のものを自分の中から取り除いていく行為です。
自分以外のもの全てを取り除いていった結果、いったん、自分というものをこうだと認識できたとき、自分を何のために使おうかと考え始めます。
また、ほんの少しでも家族という集団から離れて、社会という集団に参加し、その群れに慣れて親しくなって馴染んでいくには、排他性に逆らうように自分の意識の中に今まで取り除いていった自分以外を取捨選択しながら受け入れ、仲良くしていく水の要素「親和性」が必要になります。
具体的に言えば、人は、親が属する言語や遺伝子的特徴といった民族的な社会、あるいは気候や風土といった地域的社会の家庭に器をいただいて生まれます。その人が生まれた家庭は、基本的には親の社会的地位や行動思考に左右されますから、その習慣を身につけながら育っていきます。
やがてさまざまな体験を通して成長する中で、自分の意識の世界観の枠がだんだんと広がり、やがてそれは地域の境を越え、また時には国家の境を越えて、さらには人間の枠を越え、時には地球という惑星の枠を越えて、宇宙にまで広がっていくことになります。
意識の共有
自分を知るときに自分とそれ以外との間に境界線を引いたにも関わらず、社会に慣れて馴染んでいくために一度引いた境界線を消し、自分以外を自分のことのように受け入れて親しくなっていくということは、そこに自分の居場所だけではなく、自分の価値観や目標などが付与されていくので、これは他者に認められた自分そのものあるいは、自分を表すもの、自分を指し示すものといってもいいでしょう。これが、自分を通して繋がった「全て」に自分が宿っていく流れです。
これを私はシェア(意識の共有)の力と呼んでいます。
シェアすればするほど親しくなり、自分の可能性や自発性、そして協調性が高まっていきます。それは、親和性を発揮すればするほど、境目は薄れていき、意識がいろんなものと混ざり合いながら自分自身をも変化させていくということなのです。
解釈力
親和性の先に自分の意識の変化が見えたときに、他人は自分のもしかしたらの並行世界の投影であり、自分も他人のもしかしたらの並行世界の投影であることに気づくと、ある苦難や逆境を体験して、成長し、学んだことでその苦難や逆境に意味づけができるようになっていることにも気づけるはずです。
これを私はリード(解釈)の力と呼んでいます。
リードすればするほど気づきが生まれ、自分の人生は自分のものであることが自覚できます。起きたことへの解釈は自由ですが、自分らしく生きると言いながら、他人のせいや周りのせいにするのであれば、せいにした他人や周りに人生の権限があると言っているようなものです。人生の全ては導かれていると信じれたとき、人との出会いや縁、運命について深く理解することができると思います。
そのときに海や山、川や野原、虫や草木、雨一滴にも米一粒にも命があり、それら自然は先祖や親が育んだものであり、自然にも他人にもいつかの自分がいて、今の自分もあるのだと気づき、そして、感謝の気持ちが芽生えると思うのです。
自分を正当化する前に相手を理解しようとすれば、きっとうまくいくはずです。